「ねえ啓介」キャスターに何かがひっついているようで、そのぎこちない滑りを気にしながら、僕らは案外簡単に搭乗手続きのカウンターを見つけた。 「なに?」樹紗は少し真剣な顔をした。ミステリー映画の犯人を推すのに人の良すぎる警部の名前を挙げてみたときのような、思い出してみればこの頃ずっと見続けてきた顔のような、それは猫よりも狭い眉間にしわを寄せた臆病にも挑むようにも見える表情だった。
「昨日、お風呂溜めてたでしょ」
「あの後駅まで歩いてたらやけに冷えたからさ」
「たしかにこっちもそうだったかも、まだ八月なのに」
「それがどうかした?」
「そう、蓋しまってあったはずなのにぼけっとしてて、お湯張ってるの知らなくて。結局朝までそのまま気づかずに冷ましちゃったの」
「ああそっか!出たときに言えばよかった、ごめんね」
「ううん、こっちこそごめん。それでね」
「うん」
「一昨日『千と千尋の神隠し』みたからかなって」まっさらなゴムタイルの、それもきれいに磨かれている床にはころがっているはずもない石につっかかったように、少し間をおいて僕は笑った。
「たしかに…そうだね、そうだ。よく気づいたね」
「やっぱり⁉」笑ってしまうほど分かりやすく晴れた彼女の顔に、あまりに高い吹き抜けの天井からは、こんなところに居るから気のせいではあるのだけれどやっぱり自分の国のとは思えない色味と匂いを含んだ光が届き、君は流行りだという巻いた前髪のすき間に白い額を僕に覗かせた。
「ちょっと待ってて、発券してくるよ」樹紗を残し並ぶ人のいない電子端末に向かう足どりは小さな嘘のぶん重くなって、もちろんそんなことを君が知るよしはなかったけれど、でもどこかでまた君に伝わる日が、この口で伝えられる日が来ることがあってもいいと思った。気まぐれに寄せてくるほの甘い弱気の波はあれから明らかに遠い間隔になり、それでも完全に向こうに行ってしまった訳ではなく、たとえばそれはこれまで僕らが語ったところではやはりあの大停電の夜や電球をぶら下げた夜のことだったりするのだけれど、それも足音を立てずに去ってくれればいいものをその子はこちらへの目配せは忘れずあちらこちらと指を触れて部屋の一切の配置や向きを少しずつずらしながら行くものだから、その度に僕はその細い腕をとって思い切って迎えてしまいたくなるのだ。夢にうなされる度にそれを書き留めようとした衝動が導くように、頭痛の跡を辿っていけば、僕は、僕らはいつだってそこへ戻れるのだから…
本当にそうだろうか。カミキリムシのような羽音で切符が吐きれる。沿って千切り取ると、俳優でもないのにそんな身振りで彼女のことを振り返った。スマホをいじる俯き加減に憂鬱な気持ちを見出したくなってしまういつからかの癖はこの際だから多目に見てやれないだろうかと、明るすぎたキャリーケースの光沢に視線が引き寄せられる。少しずつ自覚的になってしまった春を胸を張って春と呼ぶことを躊躇っていた彼を今何よりも頼もしく思っていること、彼とさんざ語り尽くしたそのこそばゆい感じにまだ気づかないでいる周りのすべてを侮っていること、幼さを拒絶する懸命さのあまりざらめのような舌触りの残ってしまった「冷えた」視線の先に揺れていたのは何だったろう。ナイロンケースの代わりに楽典を抱える着崩した制服と、食指のささくれてすっかり硬くなった跡と、粉々に割れた大瓶を掃きながら床板の隙間に入り込んだ硝子の欠片を気にしていたあの子と、舞い上がってフロントで借りてきた明くる朝、ひどい頭痛を抱えながらもなぜかあれほど必死に取り組んだプレイステーションのソフトの名前は忘れてしまったけれど、冷えすぎた白シーツに隠した肩の骨の尖さや僕の背中に潰されてもみくちゃになってしまった右の靴下の花柄は良く覚えていた。冷蔵庫の陰に隠れて、指先まで伝わる鼓動を聞きながら何とか送った迎えを頼むLINEだってつい最近のことなのに、今ここではそれさえも確かにセピア色の円のうちに組み込まれようとしている。出会わないうちに過ぎてしまったことを語らないということはそれを二人の世界から永遠に葬ること―激しい訳ではなくても二度と取り戻せない河の流れに思い出ごとそれを沈めるのと全く同じことなのだけれど、それでもすべてを打ち明けることを選ばなかった(ということを選んだ)このずるさのうちには、その上で結した覚悟の原色がきらめいていた。
「ちょっと遅れてるけど、無事に飛ぶみたいでよかったね」
「うん、でもきっと向こうは大荒れだ」
「北海道に台風なんて珍しい」
「石狩のフェスあったでしょ、毎年やってる」
「あ、うん知ってる」
「ナンバーガールは出られないんだって、予報の感じだと一日目は大雨だもの」
「そっか、残念だね」
「正直、私たちには良く分からないけれどね」樹紗は、ショッキングピンクの荷物の番を僕に託し免税のキオスクへ向かう。待合スペースに備えつけられたテレビでは、大型台風の進路について予報士が手振りを交え解説を続けている。目の前に映された格子上の日本地図と、その先の窓越しに日本どころか世界中を飛び回ってゆける航空機の離着陸を眺めているうちに、さっきまであんなに緊張していた悩ましげな頭の中はすっかり曇ってしまって、それでもいいと微笑んだ今の自分を受容と名づけるも挫折と罵るも、僕たちの呼ぶ緑の季節というものは今この場所に立っていられるような時間のあわいだけにあり得るものなのだろうか。やんわりと断定から逃げる癖だけはどうしてもやめられない僕の肩を叩いたのはやっぱり樹紗だった。
「懐かしくない?これ。ひとつどうぞ」カラカラと音を立ててハンカチの上を彩ったドロップの何粒か、少し悩んでメロン味を摘む僕の指とハッカ味を取り除く樹紗の指とがぶつかった。
「あれ、蓋開かなくなっちゃった」
「戻すの?」ポケットから小銭入れを取り出して僕は言う。
「何だか鼻がつんとするでしょ、これ」
「戻したらまたいつか出てくるんじゃない」
「うん、そのときはまた」
《関東地方では、今回の台風とともに暑さのピークまで去ったようです》はっとして振り向いた僕と彼女の全く同じに開かれた目の丸みは、ほとんどその瞬間に細く崩れ、今これから、ちょうどお互いに笑いかけようというところだった。 (完)

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