「残暑が嫌いだ」という話をして、異を唱える人にまず出会ったことがない。暦の上では終わっているはずの夏をいったいいつまでひきずるつもりなのか、と誰にもぶつけられない気持ちが苛立ちに変わる。いっそのこと極夜の国に住みたくもなる。馬鹿だな、冗談だよ。LUMINEのマネキンたちはもう薄手のマフラーまで巻いていて、ひと夏着通したTシャツたちにはもう食傷気味なのに、ここ一週間までも日盛りには半袖一枚でなければとてもじゃないが快適に過ごすことができない。幼い頃、川や海に遊びに行くと、首の裏や腕を丸一日日射しに焼き桃色にただれさせたのに、家に帰ってからあのピッコロ大魔王の体液のようなどろどろしたアロエのジェルを塗ってもらうのが好きだった。きまってどこか外国(ほとんどがハワイかそこらだったと思う)から輸入された大容量のチューブで、もののしい成分表示を判読できない不安をじっさいに肌に延ばしてみたときのひんやりとさわやかな匂いに紛らわせたものだった。
週に四日は6時25分に起きる。今朝もそうだった。本当は30分でいいのに何よりも惜しい朝の5分をいったい何に使うかと言うと、決まった音楽をかけながら足指をぐうぱあと開いたり握ったりして血を巡らせることになっている。いつか以来夏は寝起きの血圧が低めだから、毎朝ゼンマイを巻くようにケットを蹴りながら30分が来るのを待つ。
今日はばたばたの一日だった。起きたら電車が遅れていて、それで少し遅れて行ってもいいかとむしろ安心してしまった。人身事故がひどいものだったようで、運転再開見込時刻がどんどん後ろ倒しになった。結局15分遅れぐらいでアルバイト先に出ると(大学の事務所で下働きのようなことをやっている)、そこから内線電話を取りまくった。左利き用には作られていない電話機の配置とマウスの位置とに憤りつつ、カイリキーもかくやの活躍だった。
12時半に事務所を退けた後、昼食をとる間もなくキャンパスを移動して一つ事務的な手続きをし、午後からの2コマ連続の授業に出た。途中耐えきれなくなって休み時間にとびきり甘いカフェラテを買いに走った。
授業が終わるとM1(修士課程1年)の皆で研究誌の打ち合わせをした。あみだくじで決めたとはいえ編集長なので各方面への指示(というとちょっと偉そうだ)とスケジュールの調整を行う。どうか皆の論文がうまくいけばいい。
打ち合わせの後院生ラウンジに残って明日の朝の露語のテキストの翻訳。先週はじめて飛び込んだzoomは完全に国内留学の様相を呈しており、「プローハ、プローハ…」と馬鹿みたいに繰り返してしまったので明日はどうか食らいつければ…そのうち日が暮れてきてとうに見棄てられた胃袋がか細い断末魔をあげている。翻訳に一区切りついたので荷物をまとめ、なんとなしにうどん屋の「ごんべえ」に足を向けた。
ごんべえのかつ丼はおいしい。本当においしい。かつも玉子とじもちょっと辛すぎて、でもそれが固めに炊いたご飯とよく合う。自分の外に客のいない店内で(最近近くに丸亀ができてしまったのだ)、東南アジア出身とおぼしきおばさんの視線を一心に受けながら、まるで1クラスに一人はいたような、あの給食のにんじんを残したまま掃除時間に突入したあわれな子にでもなったような気分を味わった。
学生会館の中庭で一本吸って諏訪通りから馬場へ向かう。久しぶりの道だった。上りがきつくなってはじめてなぜこんなハードな日に歩いたものだろうと自分が憎らしくなる。でもおかげでかつ丼の罪に情状酌量の余地が生まれた。
新宿からの小田急は座れて、読みかけのを開いてみたはいいがすぐに寝落ちてしまう。目を覚ましたときに首が傾いていたので席を立つ際にあいまいに頭を下げて電車を出た。隣のおじさんごめんなさい。
火曜日は掛け持ちの塾の最後の1コマだけ持っている。もう一年半ぐらいみている高3の子は明後日指定校の結果が出るらしい。どうかうまくいけばいい。問題を解かせている間に電子辞書で田山花袋を読もうとしたが目がちかちかして止した。
今はいくぶん落ち着いて、読書灯の下でこの日記をつけている。けれど、最寄り駅から家までの10分足らずは本当に身体がばらばらになりそうだった。社会人でもないのに偉そうにと思われるかもしれないけれど(そして実際その通りなのだけれど)、こうしてなんとなく「防戦一方」という言葉のよく似合う院生生活を思う時、頼りないつり橋の後ろから踏み板がどんどん落ちていくのに前方にも時々ふとした抜け目がこちらの足を踏み外すのを待っているから走れもせず、しかしとにかく前に進まないわけにはいけないのでがむやみに足を動かすという訳の分からない事態に陥っているような気がしてならない。それまで好きだったはずの読書はいつの間にか「研究」という名にすりかわり縁起でもない出世魚みたいだ(研究なんてしても「出世」できないのが皮肉だけれど)。だからといってこの軸を捨ててしまってはその後には天の邪鬼を極めた危険分子が一匹野に放たれることになるし(なくてよかった治安維持法)、そもそも捨てることなんてできない。何かに本当に熱中するとそこに喜びを感じることは少なくなる。それが自分の背骨になるからだ。そのせいでゆっくり生活を蝕まれているとしても、まさかこのまま手を離すこともできない。じゃなきゃ明日も早いのにこうしてキーボードに向かっていない。もうちょっとで終わるから付き合ってね。
本当に疲れた夜はミツメしか聞けない。今日は「青い月」と「睡魔」。まとわりつく不快な夜気とそれになんとなく熱を帯びたような身体、ささくれだっているのにずっと生乾きの心を、ミツメの音楽はそんな自分にこだわることなく今夜も冷たいリフを鳴らしている。明日になれば忘れているようなそんなたわいもない感動だけを残して眠りに誘うミツメの音楽はちょっと「サガリバナ」に似ている。
良い音楽に出会いたい。良い小説に出会いたい。本物はいつだって僕らをくたびれさせるが、しかしその「くたびれ」或いは「たいくつ」は、僕らのひりついた心に一滴のエーテルを垂らす。ひとときであれこの心を潤してくれる。それはちょっと他のものには代えがたい。だから僕らは読書を止められない。音楽を止められない。そのせいで眠られない夜がある。
最後にこんなものを引いてみる。
「思い出というものは、それが悲しいものでも、楽しいものでも、いつも悩ましいものです。少なくとも、あたくしの場合はそうなのです。もっとも、その悩ましさは甘美な悩ましさといえるでしょう。心が重苦しく、やるせないとき、思い出は気持をひきたて、よみがえらせてくれます。暑い一日がすぎて、しっとりとした夕べが訪れ、炎天にやかれたかよわい花が夜露のしずくによみがえるように。」(ドストエフスキー「貧しき人びと」(木村浩・江川卓・工藤精一郎訳『ドストエフスキーⅠ』新潮社、1968.5.20))
憐れな少女・ワルワーラの台詞の「思い出」を、「音楽」や「小説」に読みかえてみたらどうだろう。
良いなと思ったら真似していいよ。「残暑」のくだりもあわせて。
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