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緑の少女⑭

 気づくと僕はその場にへたり込んでしまっていた。頭上に影ができたことを感じて雲なんかなかったのにと顔をあげると、イチイが真上から僕を見下ろしていた。わっと声を上げるときに自分がひどい顔をしていることに気づいて、何も隠すのをやめた。垂れた髪に半ば隠れたイチイの顔には、僕と同じ類のものが宿っていた。彼女もまたその涙を隠すために一人で観ていたのだった。僕は彼女の足に手を触れた。支えられるように立ち上がって、よろめいた僕はそのまま彼女に身を預けた。イチイは涙の止まらない僕をそのまま受け止めた。無様な格好にも構わず長いこと僕はそのままでいて、風がやけに冷たいなと鳥肌が立ったことを何となく感じたところで世界が途切れた。

 目を開くと今度は星と浅香が僕をのぞき込んでいた。刺すような痛みが頭に走る。二人の頭越しに空が赤く燃えていた。しばらく何も言わずにそのままでいると額にペットボトルを押し付けられて、冷たさに痛みが一層ひどくなる。
「…イチイは?」
「タオルとリスバン買いに行った」
「お前ぶっ倒れたんだよ。イチイがここまでおぶってきてくれたんだぜ」星の言葉に自分の顔が赤くなってゆくのがよく分かった。
「お前はバカなのか?こんな直射日光の下で何時間も突っ立ってりゃそうなるわ」
「ほれあ」浅香は一人だけアイスキャンデーをほおばっている。壊れたばね仕掛けのように上体を起こしてそれにかじりついた。
「この野郎」大げさに拳を振りかぶる浅香を星が笑いながらなだめる。
「まあまあ、一応病人なんだから」
「一応ってなんだよ」
「うるせえアイス返せ」会場の熱気は日が暮れても一向に冷めず、それでも遠く聞こえるライブMCとわずかに光る小さな星はすぐそこに迫っている秋を思わせた。重い身体を引きずって最後のステージに向かった。既に目当てのものを全部回りつくしていた二人がついてきてくれたので、男三人でシティ・ポップ・バンドを見た。オレンジからヴァイオレットへと移ってゆく空を背に、彼らが演奏したトラックは「Tokyo」。確か自分も同じ街に住んでいたはずなのに、彼らが歌う光の街はもう何か別物にしか思えない。大人になれるのはいつだろうとまた考えてしまって、横の二人も答えを探しているのかなと、むしろそっちの方が気になった。

 メロウな時間が過ぎた後で、三人で芝生の上にどかりと座り込んだ。なぜか恋バナだ。
「浅香、彼女とはどうなの」
「まあぼちぼちかな、前コミケ行ってきた」
「うげえ」
「刺すぞ」アイスの棒で脇腹をつつくと、星がまた聞く。
「石見は?」本当は言ってしまいたかった。僕がどんなにイチイのことが好きで、どんなに彼女のことを愛しているのか。イチイのことが最近よくわからなくなってきたことについても相談に乗ってほしかった。それに、あの日の教室でのことを問い質したかった。けれど、星にはそれはできない。これといった理由があるわけじゃない。友達なんだから隠し事がないに越したことはない。ただ、不思議なことに、これは本当に不思議なことだったけれど、僕は星のことを、大切に思うのとまったく同じ強さで、ずっと憎んでいた。
「まあ、新しく彼女ができたよ。彼女でもないかな」
「まじか!すごいじゃん、てか何それ」
「なんだよその上から目線!」
「いやあ俺もできたんだなこれが」寒気に襲われる。
「え、うそ、誰!?」
「言うわけないだろ」
「「キニナル」」浅香も僕の側についた。
「絶対言わない」と言った後で、星は飲みかけのプラカップをつかんで目の高さまで掲げた。
「俺が初めてあの子を見たとき、きっとあれはレモンスカッシュの感覚だった、俺の中で何かがはじけたんだ」
「なんだそれ!」フランクフルトを片手に浅香は大笑いした。悔しいけれど、僕には彼の言葉の意味するところが分かってしまう気がして、それで黙ってただ耳を傾けていた。
「レモンスカッシュの感覚っていうのはさ、きっとバレンタインをもらいたいとかクリスマスを一緒に過ごして写真を撮りたいとか浮気が心配で携帯覗きたくなっちゃうのとは全然違うとこにあって」
「お前チョコレート本当にいらないのか?」
「浅香、うるさい」
「とにかく!あの炭酸が弾ける瞬間が全部なんだよ。俺の中に六月の風と一緒に舞い込んできたあのレモンスカッシュ感覚こそが俺の恋の正体なんだ」ほだされたようにしゃべりきった星の顔は赤かった。
「うぇっ、これレモンスカッシュじゃなくてレモンサワーだぜ」舌を出した浅香がこちらを見る。
「えっ?」なるほど星はすでに目が据わっていた。
「たぶん店員が間違えたんだろ」ついにこらえきれずに二人で腹を抱えた。
「イチイ、遅いね」
「確かに、どっかから迷子の案内かかったりして」
「そういえばイチイの名字ってなんだったっけ」
「えーと、なんだろ」僕も知らなかった。名前が珍しいからそっちにばかりに気を取られて考えたこともなかった。
「とりあえず行くか、全部観たし」大トリはエレカシらしいけど僕らには関係ない。大人たちが思い返す青春というやつの真ん中に、今僕たちはいるから、明日から二学期の僕らにとっては混雑に巻き込まれずに帰ることのほうがよっぽど大事だった。帰りの特急券は十九時発の列車にしか使えないものだったので少し急がなくちゃいけなかった。《朝の案内図の前で集合》と連絡を入れて、三人足早に出口へと向かった。ゲートが見えてくる。
集合場所にイチイは一人で立っていた。真新しい黒いキャップがよく似合っていて、(ああ、好きだ)と思う。もちろんその感慨はしまい込む。僕はもうそんなことを言えないところにいた。
「よかったあ、私迷っちゃってさ」イチイは疲れたのか声に覇気がない。僕は彼女に謝った。
「さっきは、ごめん。ありがとう」イチイはこちらをにらむような真似をした後で、にやりと笑って僕の肩を小突いた。星の方を見ると、ガムを噛みながらそっぽを向いていた。
 今日で夏が終わってしまう。その前にイチイに聞いておかなくちゃいけないことがあるはずだった。イチイに言わなくちゃいけないことがあるはずだった。ゲートを抜け、最後にもう一度会場を振り返る。煌々と光る公園の向こうには、今はもう見えないけれどきっと海がどこまでも広がっている。今朝見たばかりの風景をなぜか遠い昔の記憶のように味わってみてから、僕はふいに、これからの自分にできることは何だろうと、まったく予想もつかない明日を思った。
「おなか減ったな」
「俺あんまりだわ」
「おまえいろいろ食ってたじゃん」静かに笑う僕の隣でイチイは何かを呟き、終演を告げる大きな花火がその声をかき消した。

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