北海道への出発は、結局八月の二十九日に決まった。父親が体調を崩したということもあって、彼女の兄はこれきり東京を離れて牧場へ戻ることになっていた。昨日の晩そんな話をしながら樹紗が言い出した。
「まだ季節じゃないからなあ。あ、でもちゃんちゃん焼きがあるよ」
「何それ」
「え、うそ。知らないの」樹紗は目を丸くした。
「鮭とか野菜とかをホイルに包んで焼くの。味噌味で」
「たぶんそれローカルフードなんだと思うよ」
「知らなかった…」今日の樹紗は新しいハマナス花のワンピースを着ていた。襟の形がわずかに違うけれど、花には僕も見覚えがあった。読経のやまない月籠もりの晩のことは、あまりに遠い記憶であるがゆえにもはや無遠慮なデジャブとないまぜになってしまっているけれど、何となくつけていた午後のワイドショーで特集も組まれていた自然遺産としての知床岬の映像は、延々その後ろに古めかしい演歌が流れていて、初めて聞く僕の横でそれを当たり前のように口ずさんでいたのはたしかに僕の祖母だった。やもめ暮らしのつれづれにガーデニングをあてがっていた、卵焼きの甘い長生きな方のおばあちゃんだった。
樹紗は昨日髪を切ったらしい。初めは黙っていたのだけれど、あまりに気づかない僕に痺れを切らして晩御飯のときに聞いてきたのだ。
「私のどこが変わったでしょう!」
「髪切った?」いつものように気づいたふりをすると「せいかーい!」と春巻きを頬張る。彼女はLCCのチケットサイトを調べたり、うたた寝をしたり、ハーゲンダッツの新作についての批評を求めたりした後で言った。
「あ、そうだ。啓介電球買ってきてよ。ベッドのとこのやつ、裸のままでしょ」LINEで写真が送られてきた。
「それ、電球の型番」
「シーリングライトもさ、どうせならLEDに替えてみる?」
「でも高いし、エジソンさまさまよ」電気代のことで反論するような元気はなくて、言われた通りのものを買うためにアパートを出た。単科大学が近くにあるらしく、大きな立て看板を抱えた三人の大学生が横を通り過ぎて行った。コインパーキングの隅に猫を見つけて遠くから写真を撮ると、ズームしすぎたせいでピントが合わずぼやけた黒い塊になった。駅前のゴミ川を横目にバス停へと向かった。JRを乗り継いでいくよりもバスの定期を使って商店街まで出た方が早い。初めに図書館で用を済ませると、すでに雲行きが怪しかった。夜は冷えるからとカーディガンを出してくれた樹紗に感謝をし、サンモールの小さな電器屋で新しいのを買った。老店主にさえ今更白熱電球なんてと言われた時にはさすがに苦笑いするしかなかった。
今度のバスはスーツ姿の帰宅者ばかりだった。細い道を器用に通り抜けてゆく緑のバスを南口で降りた。前方のドアが開きタラップを踏む。振り返ると、これから乗る客の方がずっと多かった。改札口から吐き出されてくる人の波と不本意ながら一緒になって家路につく。駅からの道は、交差点を経る度に人の列が左右に分かれて段々と寂しくなってゆく。三つ目の信号に引っかかったところで、まるで重みの感じられない右手のビニール袋をトートバッグの中に仕舞った。
この路地を左に入ると神社の裏口で、一年に数日催される祭りを除くほぼすべての間神輿を眠らせておく銀色の倉庫とそのすぐそばにすっくと立つ杉の木の奥には小さな児童公園が見えるがそこに遊ぶ子供の姿はない。当然だろうこの時間だ。それに、明るいときでさえ子供たちがここを必要としているかどうかは疑わしかった。騒音禁止、ボール遊び禁止、遊具は安全面への配慮から撤去。公園だらけの郊外の街で育ったことがこのときばかりは少し誇らしく、ベンチに腰を下ろした。大きく息を吸って、吐く。胸に手をあて、自らの内部で熱をあげるトラブルの許されない自動操縦の運行を改めて点検する。昨日から頭痛がひかなかった。理由は分かっていて、その根は、今でも思い出してしまう過去に張ったものだと信じていた。掘り下げた穴の深さも上からかぶせた土の感触もいまだにはっきり覚えているのだから、それはすぐに掘り起こせるはずだった。役者のような手づかいでこめかみに指を添えると、痛みはいつの間にか治まってしまっていた。存在しない傷を幻視して一人で苦しんでいただけだった。雨だれに重くなった土にふやかされぼろぼろと形を失ってゆくその日々のことはほんの何年か前にはそれにまつわる痛みとともに確かに手元にあったはずなのに、今になってみるとすべてが何でもないことのように思えてしまう。僕は、そんな時の残酷さをまだ受け止められないでいた。過去を顧みる弱さを失った自分を何かに喩えるかわりに、僕は雨を待っていた。けれど、だから、雨さえ降ってくれたら。またきっと思い出せる、あの頃に戻れる。そう信じて、たしかに自らの足で歩いてきたはずの今をないものと思うしかなかった。
そっとふれた自分の頬はいつの間にかしなびていた。丸めた指の輪を押しつけて「たこやき!」とからかわれたあの日は悔しくてどうしても寝つかなかったんだ。かろうじて地続きであったあの地点からは否応もなく離されてゆくことも、もうふさがった皮膚を引っ張って血をにじませるのにも体力が要ることも、思わず浮かべた笑みを誰にも見られないように空を仰いだ。ただのっぺりと低いばかりの息の詰まる空だった。
不安定な日々はもうどこにもない。僕には樹紗がいて、彼女は僕を愛していた。腰のあたりに生まれつき醜い痣がある僕のことを、自分にもったいないぐらいの男の子だと嘘みたいに本気で思っている。それが彼女が自分自身の健気さを演じ僕や自らを欺くためのものあればどんなに楽だろう。けれど、彼女にそんなことができるはずもないことはあるいは僕が一番よくわかっていることだった。
過ぎていった青い季節の後で僕の手に残るのは一体何だろう。疲れ果てた意識はふとそんなことに光を当てた。緩くどこまでも続く幸せは、逃げ場のない今の幸せは、それこそ人生の最後のおまけにぶらさがっていたらよかったのに、それでこそささやかに光るものだったろうに。仮に世間と呼んでみたその一線から退いた場所で諦めることの美しさを味わい尽くすには、粗熱の抜けきっていない今の僕にはまだ少し早い。真夏のカゲロウと君をめがけて突っ込んでくるトラック、君をめがけて落下してくる鉄柱。ウォークマンの隅にへばりついたままの馬鹿げた妄想が、時として眼の前でぎらぎら光った。背もたれに身体を預け、闇に広がっているはずの雨雲をにらむ。ぽつぽつと雫が落ちて、頬に当たって、首筋を伝って流れていった。あの頃のように泣けはしなかった。
電灯が弱弱しくちらつくと雨滴の隙間を縫って味噌汁の匂いがして、樹紗のことを思い出した。味が濃いのに文句を言って以来彼女がめったに作ることはない、どこかの家のゆうげの薫りが、そんな温かさから距離を置こうと抗っていた僕をまた立ち上がらせた。左右に首を振って濡れ始めた靴ひもを結び直す。洗ったばかりのスニーカーのソールは思いのほか汚れていた。
家まであと少し、気持ちだけが先走ってそのあとを脚がついてゆく。僕はいつの間にか走っていた。薬局に駆け込む少年と肩ですれ違い、最後の横断歩道を赤信号を無視して渡る。階段を駆け上がりきったところでにゅっと現れた人影にぶつかりそうになった。樹紗だった。手には瓶と缶の袋、本当に落ちてしまいそうな身体を彼女が抱き寄せると、床に投げ出されたゴミ袋がけたたましく音を立てた。
「もう!あぶないでしょう」腰に手をまわした樹紗はそのまま離そうとはせずに、僕もまた身を任せていた。どうしようもなく暴れる鼓動が彼女に伝わっていることに気づくとそれに恥じ入り、シャツに密着した彼女の胸のつぶれように狂いそうだった。僕は、君がいつか好きだと言ったこの薄い掌で、彼女の柔らかい髪を撫でた。
雨粒だと思っていたのはどうやら違って、悟られまいと樹紗の肩に頬をあててワンピースに目元をこすりつける。退紅色の花弁は少しだけ赤く滲んで、彼女は何も言わずにそのままでいた。しばらくして彼女は言った。
「大丈夫だから」
「うん」鼻をすすって、彼女はそれから長いキスをした。ポケットに突っ込んだ手が、破れた航空券の角に触れた。
「そうだ、啓介もおいでよ。さすがにお父さんとかお兄ちゃんに会うのは気まずいだろうけど、私だって枝幸に戻ってるのは三日間ぐらいだけだから。その間札幌でもぶらぶらしててもいいんじゃない?」樹紗の話に聞いたりお土産を食べるばかりでどこか行った気になってしまっていたけれど、そう言われてみれば北海道に行ったことはなかった。実際に行ったことがないのにあの炭酸飲料のことを知っているのは自分だけかもしれない。
「蟹、食べれるかな」「まだ季節じゃないからなあ。あ、でもちゃんちゃん焼きがあるよ」
「何それ」
「え、うそ。知らないの」樹紗は目を丸くした。
「鮭とか野菜とかをホイルに包んで焼くの。味噌味で」
「たぶんそれローカルフードなんだと思うよ」
「知らなかった…」今日の樹紗は新しいハマナス花のワンピースを着ていた。襟の形がわずかに違うけれど、花には僕も見覚えがあった。読経のやまない月籠もりの晩のことは、あまりに遠い記憶であるがゆえにもはや無遠慮なデジャブとないまぜになってしまっているけれど、何となくつけていた午後のワイドショーで特集も組まれていた自然遺産としての知床岬の映像は、延々その後ろに古めかしい演歌が流れていて、初めて聞く僕の横でそれを当たり前のように口ずさんでいたのはたしかに僕の祖母だった。やもめ暮らしのつれづれにガーデニングをあてがっていた、卵焼きの甘い長生きな方のおばあちゃんだった。
樹紗は昨日髪を切ったらしい。初めは黙っていたのだけれど、あまりに気づかない僕に痺れを切らして晩御飯のときに聞いてきたのだ。
「私のどこが変わったでしょう!」
「髪切った?」いつものように気づいたふりをすると「せいかーい!」と春巻きを頬張る。彼女はLCCのチケットサイトを調べたり、うたた寝をしたり、ハーゲンダッツの新作についての批評を求めたりした後で言った。
「あ、そうだ。啓介電球買ってきてよ。ベッドのとこのやつ、裸のままでしょ」LINEで写真が送られてきた。
「それ、電球の型番」
「シーリングライトもさ、どうせならLEDに替えてみる?」
「でも高いし、エジソンさまさまよ」電気代のことで反論するような元気はなくて、言われた通りのものを買うためにアパートを出た。単科大学が近くにあるらしく、大きな立て看板を抱えた三人の大学生が横を通り過ぎて行った。コインパーキングの隅に猫を見つけて遠くから写真を撮ると、ズームしすぎたせいでピントが合わずぼやけた黒い塊になった。駅前のゴミ川を横目にバス停へと向かった。JRを乗り継いでいくよりもバスの定期を使って商店街まで出た方が早い。初めに図書館で用を済ませると、すでに雲行きが怪しかった。夜は冷えるからとカーディガンを出してくれた樹紗に感謝をし、サンモールの小さな電器屋で新しいのを買った。老店主にさえ今更白熱電球なんてと言われた時にはさすがに苦笑いするしかなかった。
今度のバスはスーツ姿の帰宅者ばかりだった。細い道を器用に通り抜けてゆく緑のバスを南口で降りた。前方のドアが開きタラップを踏む。振り返ると、これから乗る客の方がずっと多かった。改札口から吐き出されてくる人の波と不本意ながら一緒になって家路につく。駅からの道は、交差点を経る度に人の列が左右に分かれて段々と寂しくなってゆく。三つ目の信号に引っかかったところで、まるで重みの感じられない右手のビニール袋をトートバッグの中に仕舞った。
この路地を左に入ると神社の裏口で、一年に数日催される祭りを除くほぼすべての間神輿を眠らせておく銀色の倉庫とそのすぐそばにすっくと立つ杉の木の奥には小さな児童公園が見えるがそこに遊ぶ子供の姿はない。当然だろうこの時間だ。それに、明るいときでさえ子供たちがここを必要としているかどうかは疑わしかった。騒音禁止、ボール遊び禁止、遊具は安全面への配慮から撤去。公園だらけの郊外の街で育ったことがこのときばかりは少し誇らしく、ベンチに腰を下ろした。大きく息を吸って、吐く。胸に手をあて、自らの内部で熱をあげるトラブルの許されない自動操縦の運行を改めて点検する。昨日から頭痛がひかなかった。理由は分かっていて、その根は、今でも思い出してしまう過去に張ったものだと信じていた。掘り下げた穴の深さも上からかぶせた土の感触もいまだにはっきり覚えているのだから、それはすぐに掘り起こせるはずだった。役者のような手づかいでこめかみに指を添えると、痛みはいつの間にか治まってしまっていた。存在しない傷を幻視して一人で苦しんでいただけだった。雨だれに重くなった土にふやかされぼろぼろと形を失ってゆくその日々のことはほんの何年か前にはそれにまつわる痛みとともに確かに手元にあったはずなのに、今になってみるとすべてが何でもないことのように思えてしまう。僕は、そんな時の残酷さをまだ受け止められないでいた。過去を顧みる弱さを失った自分を何かに喩えるかわりに、僕は雨を待っていた。けれど、だから、雨さえ降ってくれたら。またきっと思い出せる、あの頃に戻れる。そう信じて、たしかに自らの足で歩いてきたはずの今をないものと思うしかなかった。
そっとふれた自分の頬はいつの間にかしなびていた。丸めた指の輪を押しつけて「たこやき!」とからかわれたあの日は悔しくてどうしても寝つかなかったんだ。かろうじて地続きであったあの地点からは否応もなく離されてゆくことも、もうふさがった皮膚を引っ張って血をにじませるのにも体力が要ることも、思わず浮かべた笑みを誰にも見られないように空を仰いだ。ただのっぺりと低いばかりの息の詰まる空だった。
不安定な日々はもうどこにもない。僕には樹紗がいて、彼女は僕を愛していた。腰のあたりに生まれつき醜い痣がある僕のことを、自分にもったいないぐらいの男の子だと嘘みたいに本気で思っている。それが彼女が自分自身の健気さを演じ僕や自らを欺くためのものあればどんなに楽だろう。けれど、彼女にそんなことができるはずもないことはあるいは僕が一番よくわかっていることだった。
過ぎていった青い季節の後で僕の手に残るのは一体何だろう。疲れ果てた意識はふとそんなことに光を当てた。緩くどこまでも続く幸せは、逃げ場のない今の幸せは、それこそ人生の最後のおまけにぶらさがっていたらよかったのに、それでこそささやかに光るものだったろうに。仮に世間と呼んでみたその一線から退いた場所で諦めることの美しさを味わい尽くすには、粗熱の抜けきっていない今の僕にはまだ少し早い。真夏のカゲロウと君をめがけて突っ込んでくるトラック、君をめがけて落下してくる鉄柱。ウォークマンの隅にへばりついたままの馬鹿げた妄想が、時として眼の前でぎらぎら光った。背もたれに身体を預け、闇に広がっているはずの雨雲をにらむ。ぽつぽつと雫が落ちて、頬に当たって、首筋を伝って流れていった。あの頃のように泣けはしなかった。
電灯が弱弱しくちらつくと雨滴の隙間を縫って味噌汁の匂いがして、樹紗のことを思い出した。味が濃いのに文句を言って以来彼女がめったに作ることはない、どこかの家のゆうげの薫りが、そんな温かさから距離を置こうと抗っていた僕をまた立ち上がらせた。左右に首を振って濡れ始めた靴ひもを結び直す。洗ったばかりのスニーカーのソールは思いのほか汚れていた。
家まであと少し、気持ちだけが先走ってそのあとを脚がついてゆく。僕はいつの間にか走っていた。薬局に駆け込む少年と肩ですれ違い、最後の横断歩道を赤信号を無視して渡る。階段を駆け上がりきったところでにゅっと現れた人影にぶつかりそうになった。樹紗だった。手には瓶と缶の袋、本当に落ちてしまいそうな身体を彼女が抱き寄せると、床に投げ出されたゴミ袋がけたたましく音を立てた。
「もう!あぶないでしょう」腰に手をまわした樹紗はそのまま離そうとはせずに、僕もまた身を任せていた。どうしようもなく暴れる鼓動が彼女に伝わっていることに気づくとそれに恥じ入り、シャツに密着した彼女の胸のつぶれように狂いそうだった。僕は、君がいつか好きだと言ったこの薄い掌で、彼女の柔らかい髪を撫でた。
雨粒だと思っていたのはどうやら違って、悟られまいと樹紗の肩に頬をあててワンピースに目元をこすりつける。退紅色の花弁は少しだけ赤く滲んで、彼女は何も言わずにそのままでいた。しばらくして彼女は言った。
「大丈夫だから」
「うん」鼻をすすって、彼女はそれから長いキスをした。ポケットに突っ込んだ手が、破れた航空券の角に触れた。

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