https://www.youtube.com/watch?v=aywqHAKBoQ0
「それからどうなったの」
「え、ああ」LINEを閉じ、一口で飲みきるには多すぎたお酒を格好がつかないと無理に含んだのに、むせて吐き出すところだった。
「大丈夫?」あわててうなずき、すみませんと言えない代わりにもう一度顎を引く。「石見くん、平成生まれよね」
「…あなたより年下なのに昭和なわけないじゃないですか」
「たしかに」再生し始めたばかりのオンバト名場面集を一時停止し、小さな手には太すぎるネックのペグをいじくっている彼女に向き直る。
「ルーターどこでしたっけ」
「あ、パスワード?パソコンの裏にあって出すのめんどくさいのよね。写真撮ったのあるからそれ見て」アクセサリもカバーもついていない裸のpixelをこちらへよこし、受け取ろうとした僕が腰を上げた途端それを引っ込めてすぐ横に膝を寄せた。
「石見くんもYouTubeなんか見るんだね」
「ええ、まあ。寝る前にときどき開くんですけど、いつも寝落ちちゃうんで結局何も見られてないのと同じで」
「わらえる。ちょっと見せて」僕が差しだしたのは色違いの同じ機種だった。
「誰かにLINE飛ばしていい?」
「出ていきますよ」
「今出ても終電ないわよ」
「…何見てるんですか」
「閲覧履歴。何かやらしいものでもないかなって…あっ」慌てて取り上げようとする僕を避けた彼女はスクロールの指を止めた。
「ねえ見て、これ」
「それは樹紗がいたずらしたもので…」
「違くて」すべてを無料で見られる代償に忌々しい広告に付き合わなければならない僕らのひまつぶしの、新着動画の欄に上がっていたのは「眠れぬ森の君のため」のMVだった。
「これ…」
「そう、懐かしくない⁉」
「…」あれがいつのことだったのかを、僕はきっとチャイムの残響や譜面の束のぶんだけ重い鞄の真新しさなんかまで一緒に覚えていたはずなのに、今はただ「そんなことがあったこと」を思い出すだけで、わずかに痛むけれど完璧にふさがった傷の位置はじつは元とは微妙にずれていたりする。アクリル板の厚みが、時の屈折率が、ずっと手を触れずに匿ってきたあの日の自分と今の自分とは氷や水や水蒸気のように互いに行ったり来たりできるものではなくて、例えば一度火を通してしまった卵黄を再びなめらかに溶くことができないような、一度読み破ってしまったミステリーが筋がどんなに素晴らしくてもトリックを知った時の感動をもう二度と味わえないような、どんなに深く潜っても、語ることによって傷を開いても、少しずつ変わってしまった自分を掬いだすなんてことは無理な話で、僕はそのことにいつからか気づいていたのかもしれない。濡れそぼる神社の公園が目に浮かんだ。遠い親戚の通夜の晩にもぐりこんだ母の布団のまだ少し匂う線香に誘われた、寝汗にまみれた死の夢のように、息絶え絶えに山巓を仰ぐアイゼンのつま先の、新雪に口を隠したあのクレパスのように、ほとんど発作的に襲ってくる戸惑いから逃げるように僕は先輩を見つめた。
「それでも、嫌いどうしにならなかったのね」
「ああ、不思議でしょう。でも、代わりにそれ以上近づくこともなかった」
「その子は?」
「わかりません、今は連絡もつきませんから。ひどいことをしました」
「自分で言っちゃうんだ、それ」はじめて向けられた非難の目に汗がにじんだ。
「…なんでそんな顔しているの」
「色々思い出しちゃって」
「本当に?」
「どういう意味ですか」空の缶を握りつぶしてしまうと、それを流しの隅に置いてまくっていたシャツの袖を直す。
「終電ないってば」
「ええ。迎えが来てくれているので」
「えっ」恨めしそうにこちらを見上げる先輩の期待は分かっていた。僕は分かっていた。
「…これで最後ね?」
「…はい」トイレの電球もオートロックの玄関も彼女の部屋の何もかもがうちとは違うことが、そのときの僕にはこれ以上ないくらいうれしかった。閉じ切ったドアの向こうの繭さんの部屋に、僕が残したかもしれないコロンの香りを思った。
広いエントランスをうろついていた浅香がエレベーターのドアが開く音に気づいて手を上げる。
「久しぶり」
「一週間ぶりな」低い笑い声に視界がにじむ。
「飲みながら帰ろう、どうせ今日樹紗さんいないんだろ。うち来いよ」浅香の提げた白いビニール袋ははちきれんばかりだった。
「どんだけ歩くんだよ、ここから」
「いいじゃんか、今日は俺のおごりだ」
「どうせならバーとかがよかったな。多崎つくるが行ってたみたいなさ」
「「だれだよそれ」」返事を言い当てられた浅香は不満げな顔をした。
「でも、よかったな」
「ああ」
「あのときみたいにいくわけにはいかないもんな」
「そうだね」街灯ばかりの国道沿いを行く僕らはときどき大型トラックに追い越され、そのたびに風にばさつく髪を直す、その繰り返しだった。
「なあ、浅香」
「うん」強引に引き寄せた彼の手は、ひどく骨ばって冷たい手だった。
どこかで火事が起こっているようだった。道にかかる白い煙を夜霧と思いこんで気にせずにいたところに、どこか懐かしいような建材の燃える匂いが混じっていたのだ。離れているだけ低く聞こえてくるサイレンの音に、ともに頭を熱くした期末考査のことを思い出した。なんで文系に物理を解かせるんだといらだつ僕を、たしか浅香はチョコレートをかじりながら笑っていた。口を結んだ彼もまたなんとなくそのことを思い出していてくれたらと、車道側にはみ出した袋を奪い取って手を解いた。
通学に使うのではない、高架化の進まない路線駅まで出てくると、月曜の夜も深いというのに人手が多かった。明らかに野次馬というのではなくて、いつもは夜食にラップをかけて風呂を浴びているはずの婦人が改札まで迎えに来ていたり、中東系の男がまだ期日の迫っていない光熱費の払い込みを済ませてしまったり、背に余る公文のナップザックがおそろいの二対のおさげは互いにその小さな鼻をつまんでいた。それぞれ理由をつけてバスプールを離れようとしなかったのは、煙と匂いだけが確かで肝心の火元がどこなのか誰にも分らなかったからだ。プラットフォームの屋根の上に公団住居の棟が月明かりを受けて鈍く際立っていた。風がないから靄は落ち込んで、グラスの底に沈んだガムシロップのような夜だった。
「小学生のころさ、いや、もっと小さいころだったころかもな。友達に連れられてあちこち走り回っていて、ほら、近所は公園が多かったから。春になると蟻が出てくるだろ、それをさ、例えば巣穴が五つあったとしたらそのうちの四つは石で塞いでしまって、ってもぴったりのサイズじゃなきゃ隙間から出てきちゃうんだけど。それで、残った唯一の穴からぞろぞろはい出てくるのをつぶすんだよ、みんなしてさ」
「たしか俺もそんなことあったな。こっちは穴に石鹸水を流し込んでいた気がする」
「俺のとこより悪質だな」
「同じようなもんだろ」垂れてきた鼻水に眉をひそめた。数か月のうちに慣れ切った熱帯夜は闇の色も独特の匂いも疑いようなく濃いものなのに、息だけがずっと苦しいのを不思議に思っていた。
「昨日ずっと眠れなくて」
「うん」
「子供みたいだけどさ、羊を数えていたんだ」
「ひつじ、ひつじ」
「うん。でもやっと眠れるってなったときに、それまで数えていたのが山羊だったことに気づいて」僕はとても喉が渇いていた。袋の中を覗くと案の定コーヒー牛乳が入っていた。紙パックの縞模様もうっすらと汗をかいていた。
「前してくれたろ、あの話」
「うん。どうかした」
「いつまでだろうな。俺も、お前も。俺らの緑の季節はいつまで続くんだろう」
「わからない」
「いつもそんなことばっかり考えてるんだろう」
「そんなこともないよ」
「うん」
「でも、今年の梅雨はほんとうに長かった」
「長かったな」
「また台風が来るかもしれない」
「大丈夫、この先一週間は晴れ続きで、フライトも心配ない」
「…早く過ぎてくれたらいいのに」
「でも、それもちょっと寂しいだろ」
「なあ、もう少しかかるかな」
「俺が聞いたんだろ。けどそうだな。きっともう少しかかると思う」焦げ臭い靄はまだ晴れなかった。
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