今日は暑かったが、わりに静かな一日を暮らした。百年前の文学青年が郷里の親類に無心をする手紙を飽きるほど読んだ。読んだ後で、なんということかと思った。
こんな風につまらない一日であったから、今日は昨日の話をしておこう。帰りの小田急で、満員近い中吊革に揺られていると、座席を見下すように横並びになったそれでもまだ恵まれた立ち位置の乗客らのうち僕のすぐ隣を挟んでもうひとつ向こうに立った三十そこそこと思しき女性の、見るからに顔が青くどうかしたのかとよく見ると妊娠中を示すワッペンが鞄にぶら下がっていた。ワッペンどころか、大きく前に突き出た腹が臨月に近いことは僕にでも分かった。彼女の前の席は当然埋まっている。読書に耽る体格の良い三十がらみの男と、その隣に目を閉じて俯いている壮年の男が並び座り、わざとかは知らないが二人ともそのワッペンに気がついていないようだった。その時僕は、とっさに、僕が腹にいるときの母の話を思い出した。ちょうど今の彼女のように電車で母が座れずに困っていたとき、隣に立った青年が「たいへんですね」と一言声をかけてくれたそうなのだ。むろんそれを聞いた周りが見て見ぬふりを貫けるはずもなく(世の不親切はたいてい臆病と不遜からくるものだ)、母は無事席につけたそうなのだが、たわいもないそんな話をこうしていつまでも覚えているのは何ということだろう。思うに、若い母と腹の中の僕に手を差し伸べた顔も知らないその青年の言葉ほど、僕には角を立てずに場を収めることのできる自信も能力もないのだ。だから僕はその話を、まるでいつか果すべき偉業のように掲げながら、いざその場に出くわすとこのように手汗ばかりかいて吃ってしまうのだ。ひねもす活字に向き合っていても、僕はそのような言葉を持ち合わせていない。 いや、しかし。いやしかし違う。自信ではない。ましてや能力でもない。言葉を移して問題をすり替えてはいけない。僕には角を立ててでも手を伸べようというその度胸がないのだ。たんに意気地なしなのだ。仮に自分がその席に座っていたとしたらすぐに立ち上がるだろう。爽やかな微笑を演技らしく浮かべることもあるかもしれない。ただ、それは思いやりなどではなく、自責に耐えることのできない己の怯懦の心に過ぎないのだ。そうして本から眼を外した拍子にワッペンに気がついた若い方の男が、とっさに立ち上がったのを見て胸をなでおろし、一部始終を盗み見た気まずさから逃げるように夜の窓に視線を投じることしかできない。僕は、そんな自分が狸寝入りのおやじよりも憎かった。
昨日は朝から晩まで駆けずり回っていて、それで夜十時過ぎに家に帰った。塾では、受け持った生徒になるだけ親切な講義をした。しかし、扱った過去問に出てきた『風立ちぬ』の映画について語る段になって、tuberculosisという語に線まで引かせながらついに小説の方には触れないでしまった。
駅から家までの最後の角を曲がったところで明い月が仰がれ、ああと声が出た。それで僕は、車内で起ったことをどうか忘れずに書き留めておこうと思ったのが、今の今まですっかり忘れていた。
駅から家までの最後の角を曲がったところで明い月が仰がれ、ああと声が出た。それで僕は、車内で起ったことをどうか忘れずに書き留めておこうと思ったのが、今の今まですっかり忘れていた。
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