読み止しの本を放ってこれを書いている。色々なものが落ち着くように落ち着きつつあることを感じる。ふさわしい穴にすっぽりと収まった球を眺めているときのような、不思議とさびしいあの感じを味わう夜だ。
誰にも薦めずに独り愛着している歌手が二人いる。主に昼にかけるのと、主に夜にかけるのと。今は夜だ。蒸すように暑いが、週末にこの冬を過ごすセーターを買いに行きたいなどと、そんなことを考える。
講師に出ている学校は今日が今学期最後の出校だった。隣の席の五十絡みの保健科の女教師と、僕とは、答案を返された生徒たちのあるいは起るかもしれない異議申し立てを待つべく二時間あまりこの席に座っていなくてはならなかったので、いやしい同盟という気分で暫く歓談に耽っていた。退屈がしのげただけではなく、いろいろと良い話が聞けたような気がしたのだが、どうしてか今はその中身を思い出せない。
その帰り――霧雨が音もなく、外堀通りをデザートの皿に降る粉砂糖のように白くけば立てていた――駅の壁に「みたままつり」の張り紙を見つけた。いつか行ったことがあった。その時、財布には誇張でもなんでもなく一銭も金が入っておらず、ただ夏の夜の光と音と熱とにあてられるというそれだけで楽しかった。今出向いてもそうだろうか。
一昨日か、ぎっくり背中になった。そんなものがあるかは知らない。左肩から背中にかけて筋がつっているような、意地の悪い蔦が張り付いているような、不吉な痛みだ。
暫く心配をしていた人がふっと隠れてしまった。それほど親しくしていたわけではない僕から何を言えるわけでもないので、今はただ自分で擦りむいた膝の傷に目を見張る子供のようないたいけさで、口をつぐむしかないような気もしているが、それもわからない。あるいは何かにせっつかれることもあるかもしれない。
長い夏休みが始まることになる。風のない朝の川のほとりの青い柳の木――そんな画が浮かぶ。「青い春」につづく「緑の季節」という想念について、僕はこの数年をとらわれている。いや、僕がしがみついているといってもいい。もう少し離さずにいたいし、あるいはそれにどれだけかかずらってもいいとさえ、強気にそう考える夜だ。
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